歴史
神田という地名とその背景(故遠藤達蔵氏著神田鎌倉町物語より)
神田という地名が、地図の上に載ったのはそんなに古いことではない。江戸時代は大体この辺が神田、この辺が日本橋と呼ばれていた。江戸が東京と改められ区政により区の境界が定められて、はじめて神田区としてその地名が公認された。そののち神田区と麹町区が合併して千代田区となると、神田という区割り上の名称は再び消えてしまう。さてこの神田という地名は何から起こったのであろう。古代、現在の駿河台は神田山と呼ばれていた。
天正18年(1590年)徳川家康公が江戸へ入った時、まず旗本や大名の居住地を定めることが必要となり、お城の東の神田山を旗本に割り当てた。神田山はお城の東側を守る要害の地でもあったからである。以来徳川家旧領駿河の国を懐かしんで、駿河台と呼ぶようになった。さて城の南、大手町前の土地は古く柴崎村という戸数100戸ばかりの村であった。ここには鎌倉時代に真教上人が来訪し、たまたま村内の将門塚が荒れ果て、天変地異が続いて、これは将門公の祟りであると恐れおののいていたので、上人は塚を修復し、傍らの小祠に将門の霊魂を祀って神田明神と称して供養したところ、将門公の怨念も鎮まったと時宗の古文書にある。この柴崎村を江戸城建設の作業所にするため、村ごと浅草に、同時にここにあった柴崎道場(日輪寺)も移転された。又同様に村内の神田明神を二代将軍の命によって、現在地湯島に桃山風の壮麗な社殿を建築し将門公の末裔という柴崎勝吉を神主に任命してその祭祀を取り扱わせた。以来柴崎氏は明治維新まで連綿と祭事を司り、江戸の総鎮守の責務に当たった。尚明治維新によって江戸が東京に改められたとき、新政府の役人の中で、神田という地名は昔ここに伊勢大神宮の神餅に用いる米を作った事によるとの新説を唱えるものがでて、新政府におもねる者が、この説を記した者があるが、これはとんでもない誤りで、当時の柴崎村は江戸湾の奥の漁村であり、神餅を作付けする良田など有るあずはないのである。
鎌倉河岸 江戸城の築城と鎌倉町の関わり
徳川家康公江戸入府後直ちに江戸城に縄張りが施され、傘下の大名に命じて江戸城の築城工事が着手された。家康公はこのとき既に、豊臣家に変わり江戸に幕府を開く考えだったと思われる。江戸城の遺構は現在の皇居を囲む堀割とほとんど同様の形態であるが、板東に広大な武蔵野はあっても、築城に必要な木材や石材がない。そこで旧領駿遠三の山々から巨大な木材を伐りだし、天竜川大井川等を流下させ、海は筏を組んで江戸の日比谷の入江に入れた。石材は伊豆を中心に切りだし、これも筏に乗せて日比谷の入江に運び、そこから平川を遡らせ現在の大手前の作業場に運び込んだ。木材は鎌倉幕府以来、鎌倉材木座にあった材木市場の材木商人を江戸に呼び寄せ彼等の力を借り入れた。平川を遡行させた木材は現在の神田橋から引き揚げ、旧柴崎村の跡地を作業場として切削の作業を行い、石材はやはり神田橋付近の荷揚作業場で用途に応じて切り組み、主として堀の造成に使った。城の堀は水の上に出ている部分以上に基礎を作るので、莫大な数量の石材が必要であり、また石垣積みは特殊な技術を要するため、全国から名工と呼ばれ、特に堀の石垣積みに熟練したものを集め、また図面により堀を各大名に分担させて仕事を競わせた。そのため全国から大工、小工、石工が続々と集まり、柴崎村の旧地はまるで戦場のようであったと幕府の記録に残っている。また鎌倉材木座の材木商人は平川の東側に指図小屋を建て、作業奉行指揮の下に旧柴崎村跡地に材木を運びこんだ。この時鎌倉材木座から呼び寄せられた材木商人は、慶長九年以来嘉永十四年に至るまで築城完成後も鎌倉河岸に土地を与えられ、大名旗本屋敷の建築の用材を販売する特権を与えられ、幕末まで商いを続けたため、この場所を鎌倉河岸と呼ぶようになったのである。
神田鎌倉町物語(故遠藤達蔵氏著)より
鎌倉河岸と徳川家の盛衰
三代将軍家光はなかなか子供が出来ず幕府も心配し、特に乳人の春日の局は大変苦慮していたが、たまたま鎌倉河岸を通りかかったときに、そこの古着屋の娘が体格も良く、家光の気に入るタイプと考え、早速旗本増山正利の姉として城内に伴ったところ、家光も大変気に入り、間もなく元気な男子を出産した。これが四代将軍家綱となったということである。このめでたい話と対照的なのが、大政を奉還した十五代将軍慶喜の話である。慶喜は、勝海舟等の策を入れて平和解決を決断し、江戸城に官軍の無血入城を謀ったが、佐幕派の武士に「慶喜は自ら命を惜しんで徳川家を滅亡させた」武士にあるまじきものであると非難された。その後慶喜は、勝海舟等の尽力で静岡に隠居してその人生を全うしたが、徳川家としてもその没後徳川将軍として扱うことが出来なかったので、徳川家代々の墓所に入ることが出来ず、谷中に一般人と同様に葬られた。
このことをあえて追記したのは、慶喜の葬儀、年回の祭祀は神田神社の宮司がこれを祀り司り現在に至っていることを知る人が少ないと思うからである。
神田神社氏子総代 内神田鎌倉町会顧問 故遠藤達蔵氏著
神田鎌倉町物語より